「スペイン風邪の最中でもオリンピックはやっていた。やろうと思えば出来る。」竹中平蔵が言ったそうだ。
その通りだ。やろうと思えばオリンピックなんかどんな時にでも出来る。
たとえ「関東大震災」の直後でも焼け跡に石灰で白い線だけ引いてやれば「出来る」だろうし、B-29が焼夷弾を落としている最中でも爆弾をよけながら走れば「出来る」だろう。「それなりに」。
でもそんな風にしてでもやるべきものかどうかというだけのことだ・・・。今回も又、そうだ。
まともに考えれば「NO」というのはわかるはずだ。既に大半の人は判っている。
なのに未だ止まらない東京五輪。
もし今回、強行されればそれによってどんな恐ろしい悪影響が出るか?感染拡大が生じるか・・・?多くの人々が論じている通りだ。専門家も明確に指摘している。
海外の人々も十分わかっていて警告してくれている。国連も賠償金なしでの中止を提言している。G7?あれは「お宅やるなら勝手にやりなさいよ。まあ、ご自由に・・・」と無責任に言っているだけだろう。
今、ここで私が言いたいのは今回の五輪の強行をもし私たちが許してしまったなら、コロナの拡大だけでなくもっともっと恐ろしい病魔がこの社会にはびこるだろうということだ。
その病魔によって政治は「国民なんてテキトーなことを言っておけば大丈夫。いくら嫌がっていても『抵抗』なんかできない。『やってしまえば』おわり。」という下劣な開き直りをこれまでにも増して徹底的に習得する。かなり天文学的な馬鹿にされ方だ。
一方で多くの「国民」は「いくら言っても所詮無駄。『やられてしまう』だけならいっそ楽しみにしとけばいいんじゃないの?直接被害ありそうなのって都民さんだけだろうし・・・悪いけど。」と言うこれまた下劣なあきらめをこれまでに増して、骨の髄まで習得してしまう。かなり天文学的な奴隷根性だ。
そしてあらゆる不公平や不条理に対して鈍感で怒りすらおぼえなくなっていく人々。
とにかく五輪という「興行ごと」をこなせば大金の入る利権が一般人の安全と命をおびやかそうとしている。そしてそれを止められるか否かというのが、今般の五輪の是非の本質だ。なのにそれが「アスリートだけが尊いのか?」「いやかわいそうだ」などといった議論にすり替えられている。意図的に。
一旦スタートしてしまえば、連日無様な失態が続出して世界に恥をさらすか、それとも「それなりに」事もなげに進行していくかは別として、とにかく「出来てしまう」のだろう。間違いなく。
そして多くの日本人は「オリンピックゲーム」(私は本当に一秒も見たくないし、又見ないけど)とやらをTV etc.で少なからず熱心に観るのだろう。でもだからと言ってそれが多くの国民が五輪を肯定した証には断固としてならない。(猪瀬よ、よく判っておけ)
もし、この夏東京で「サーカス祭り」であろうが「裸おどり大会」であろうが、世界規模な「見世物」が催されれば多くの人は「観て」「暇つぶしにする」だけのことだ。
昭和の有名なギャグ「コ・マ・ネ・チ!」を産んだように・・・。オリンピックって所詮コマネチなのだろう。私たちにとって。
今こそ、はっきりこの国で生きる者として「中止」を叫ぼう。そして止めよう。
東京五輪の強行を。
私たちがこの国の主体であり、本体であることを自覚し、示すために。
私たちはどうにでも出来る無一物などではないことを示すために。
五輪中止を叫ばねばならない本当の意味はここにある。